染と織の歴史④ 平安時代
◻︎平安時代
遣唐使が廃止され 中国的な様式は衰退していき、
日本固有の文化様式が生まれました。
仮名文字が発明されたのもこの時代です。
宮中の女性の服装は女房装束(十二単)です。
白小袖の上に長袴、単、袿、表衣、唐衣などを
重ねて着ますが必ずしも12枚というわけ
ではありません。
日常の装い、晴れの日、季節の移り変わりの
その折々にふさわしい装いを整えるには
磨かれた感性と教養が不可欠でした。
この時代の生地は草木染めの絹織物が中心で
文様も織りで表現されていました。
公家の装束や調度品につけられた文様は有職文様
といい、 桐竹鳳凰文、立涌、浮線綾文などがあります。
また、「かさねの色」という言葉もよく耳にします。
色も風合いも違う薄い生地の表地と裏地を、
重ねて袷仕立にしたときにあらわれる色の妙味を
「重ねの色」として愛で、
上に重ねる衣の寸法を順に小さくし襟や袖口、裾
から段々に重なる衣の色彩で季節を匂わす
「襲の色」という2つの意味合いが込められています。
当時の人々の季節に対する繊細な感性は、
今でも着物の取合せの良いお手本となっています。
そしてこの女房装束の下着にあたる「小袖」こそが
後の「きもの」の原型なのです。
『盛夏の扇子』のお作法
まずはよくないお手本から
ついつい顔の近くで扇子をバタバタしたくなりますが、
お袖から腕がのぞいでしまいますね。
扇子を使うときは
正面から親指が見えないように指を揃えて要を持つのが女性の持ちかたです。
歩きながらあおがないようにしましょう。
男性は親指を立てて要を握りこみます。
そして扇子は全開にしない。(慎み深く、満ちれば欠けるの心で中骨を2〜3本残して)
あおぐときは胸の下あたりから顔の下に向かってゆったりと肩幅から出ない範囲にとどめます。
これは他の方に風が当たらないようにするための配慮です。
また手のひらは、体温をはかったり、寒い時には火鉢にかざしたりと温度に敏感です。
顔に風を当てるより、手もとを扇子であおいで袖口に風を入れるとさらに涼しく感じられますのでお試しを。
扇子を使う前に、同席の目上の方に、一言断ってからあおぐようにすると丁寧です。
ご参考までに扇子の部位の名称をご紹介します。
どのような場合でも地紙に直接手を触れないことが扇子を長持ちさせるポイントです。
もし帯に挿す時はきものの胸元と扇子が擦れ合わないように深く挿すとどちらも傷みません。
扇子をバックに入れて持ち歩く時は扇子入れに入れることをおすすめします。
染と織の歴史③ 奈良時代
□ 奈良時代
遣唐使により中国・唐の文化が日本に伝えられ、衣服もその影響を強く受け、唐の様式とほぼ同じであることが日本書紀の記述からうかがえます。
正倉院にはこの時代の羅織、錦織、綾織、経錦、風通、綴織、織成などの絹織物、纐纈(絞り染)や夾纈染(板締め)、臈纈染(蝋染)といった文様染の布が収められています。
文様には宝相華や鳳凰、亀甲や孔雀、格子、縞、葡萄、唐草などがあり、遠くはイラン、ローマ、インドなどから中国を経由して日本に伝えられました。
これらの織、染、文様は現代のきものにも脈々と受け継がれています。
柳芽吹く春
今年の二十四節気のひとつ「清明節」は4月4日でした。
万物みな清らかで明るく、すがすがしいころです。
中国では古くからこの日はご先祖のお墓を清め、お参りをする日だそうですね。
清明節は別名「挿柳節」。
この日、家の門や馬車、井戸端に柳の枝を挿すという風習もあるそうです。
春一番に芽吹く柳の生命力に邪気を払う力があると伝承されているのでしょう。
また、柳の枝を髪に挿せば病気を流してくれる、ともいわれているそうです。
実際柳の木の皮に鎮痛、殺菌作用がある品種もあるそうですから試してみたい気もします。
こちらは 下島宏作「しだれ柳に桜文様の振袖」。
たおやかな柳の枝と満開の桜が極限までシンプルに図案化された振袖です。
今まさにこの振袖のような風景が日本中で見られます。
春、本番ですね。
丹頂鼻緒のバルーン草履
きもの好きの皆さまにはお馴染み「丹頂鼻緒の草履」。
白い鼻緒の前つぼが赤色になっています。
和装小物のページでご紹介した 「菊乃好製のバルーン草履」を最近自分用に誂えて履いています。
鼻緒の前つぼを赤くして、丹頂鶴に見立てるなんて素敵なことをどなたが思いつかれたのでしょう!
日本の美意識にワクワクしてしまいますね。
ところで、赤と簡単に表現しましたが、丹頂の丹は赤土の古語。
また、丹色(にいろ)といえば黄色味を帯びた鮮やかな赤の別称。
いわゆる朱色とはまた違うのだそうで。
この前つぼの色合いをあれこれ迷うのもお誂えの楽しみです。
ちなみに丹頂鶴の頭頂部は羽毛の色が赤いのではなく露出した皮膚の血管の色。
この色で鶴のご機嫌がある程度わかるのです。
今回は草履の台を黒地の帆布にしてみました。
黒地の帯をしめた時や黒地のきものを着る時、バックが黒っぽい色の時などに大活躍です。
履いてみたい!と思って下さった方はどうぞお問合わせください。
「菊之好製 バルーン草履 四分三段」を
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販売しております。
「紅型」の名付け親
立春間近のこの時期が、寒さのいちばん厳しい時ですね。
こんな日は色鮮やかな沖縄の紅型を手にとってみたいと思います。
「紅型」のはじまりは14世紀ごろ。
中国や東南アジアとの交易の中で伝わったインドやジャワ更紗の技法が沖縄の気候や風土とあいまって今の紅型の基礎となったそうです。
その後中国の染物や友禅の技法も取り入れながら沖縄独自の染物となりました。
琉球王朝の時代、紅型は王族や上流階級の衣裳で、庶民の着用は許されませんでした。
「紅型」の語源について『沖縄文化社編 沖縄の伝統工芸』という本にわかりやすく記されていますので引用させていただきます。
“ 紅型の紅とは、単なる紅色のことではなく、色を総称したものであり、また型とは、型染めのことではなくもようを指したものといわれている。
紅型の文字を用いたのは、紅型研究者の鎌倉芳太郎で、大正時代の終わりのころといわれる。王朝時代、染物は職人のあいだで型付とよばれていた。”
本当に独特の色!独特のもよう!
紅型とはよくぞ名付けてくださったと思います。
2月の沖縄は日本で1番早く桜が開花します。
鮮やかな琉球の寒緋桜を思い描きながらこの紅型の振袖を眺めています。
染と織の歴史② 古墳時代〜飛鳥時代
□ 古墳時代
大和朝廷が国内を統一、 中国からは漢字が伝えられました。
その頃に秦氏や錦織部など朝鮮半島からの渡来人が布地を織る技術を伝えたといわれています。
それは現代の織物と変わらないような見事な技術であったそうです。
芝山町立「芝山古墳・はにわ博物館」にはこの時代の埴輪をもとに特別な時に身につける衣装を復元されたものが展示されていますが、大変色彩豊かで華やかな事に驚かされます。
この頃からすでに寒さから身を守るためだけではなく、身分や権威を表したり、祭祀や集会など日常と違う晴れの場で身につける特別な衣裳“晴れ着”が存在したのです。
□ 飛鳥時代
遣隋使、遣唐使によって中国文化が日本に入って来ました。
高松塚古墳の壁画に見られるように、位の高い人々は色彩豊かな衣服を着ていましたが一般の人々は弥生時代からほとんど変わらない服装だったようです。
この時代の摂政 聖徳太子は朝廷に仕える役人を12階の官位に分け冠を授けました。冠の色は階級によって定められ、衣服も冠の色に準じた色であったと考えられています。
聖徳太子の死後、彼の妃・橘 大郎女が太子とその毋・間人皇后の死を悼みつくらせた「天寿国繡帳」は日本最古の刺繍工芸品として国宝に指定されています。
礼装姿の要『末広』の知識
あまり店頭に並んでいないのでご存知ない方が多いかもしれませんが、地紙が金銀、骨の部分が白い末広の事を骨扇とよびます。
白漆や象牙、合成樹脂などで出来ています。
黒留袖を着るとき帯の間に挿すのは地紙が金銀、骨は漆塗りに蒔絵がほどこされた黒色です。
色留袖にはこの写真の骨扇をおすすめします。
振袖、訪問着、付け下げ、色無地をお祝いの席でお召しの際にもお使いいただけます。
骨扇に白い房がついたものは花嫁さん用です。
言うまでもなく、あおいで涼しい扇子は祝いの末広の代りにはなりません。
<末広の挿し方>
左胸側の伊達締めと前板の間に金の地紙か骨を正面に向けて挿します。
どの様な場合も金が表です。
帯が銀色だから銀を正面に向けるという使い方は決して致しません。
胸に当たると、きものの生地を痛めますので控えめに挿しましょう。
宝船(たからぶね)、どちらを向いてる?
きものの文様の一つ「宝船」。
七福神や財宝、米俵などを乗せた帆掛け船のことです。
しあわせは海の果てからくると信じられていたんですね。
さて、この船の舳先の向き、
左を向いていれば「入船」
右を向いていれば「出船」
と呼び分けています。
「入船」は、たくさんの財宝や縁起物を積んだ船が港に入る様子が描かれ、しあわせが訪れるようにとの願いが込められています。
一方「出船」はおめでたい希望の門出を表しています。
この様に柄に込められた、着る人の幸せを願う作り手の思いをこれから折々にお伝えしていきたいと思っています。
染と織の歴史① 縄文時代〜弥生時代
□ 縄文時代
人々は動物の皮や革、そして植物繊維(主にカラムシなどの草の皮、葛や藤などの樹の皮)を 編み、骨で作った針で縫い合わせた布を身に付けていました。新潟県の織物「小千谷ちぢみ」、沖縄県の八重山上布などは今も変わらずカラムシ(苧麻)の糸で織られています。
人と繊維との長い関わりの始まりです。
□ 弥生時代
魏志倭人伝によると庶民の女性は布の真ん中を裂き頭からかぶる「貫頭衣」と呼ばれる衣で生活していました。
小さい頃新聞紙に穴をあけてかぶり原始人ごっこをしたことのある方も多いのではないでしょうか。
ただ、当時織られていた布の巾は30㎝ほどであったといわれていますので、実際にどの様な形であったかは諸説分かれる所です。
現存する人物埴輪を見ると現在のきものと違い男女ともツーピースで、男性は下はズボン、女性はスカート姿です。
また、生地の素材は吉野ヶ里遺跡から麻などの他に日本茜や貝紫で染められた絹織物も出土しています。