皆川月華とハワイの蘭
12月のはじめ、
たまたま入った書店で
「婦人画報」2019年1月号の表紙に
目が釘付けになってしまいました。
宮沢りえさんが纏っているのは
昭和の京都染織界の重鎮、
皆川月華さんの蝋染め訪問着です。
たまたま今年8月に
豊橋市のほの国百貨店の美術画廊で
「昭和の染織展」と銘打ち
奢侈品の製造販売を禁じられた
戦中戦後の染織界の状況下、
古来より伝わる工芸技術の維持や
自らの技量の研鑽につとめた
皆川月華、小合友之助さんらの作品、
また高度成長期に腕を振るった作家達の
とびきりの染織作品もあわせて
展示させていただいたところで、
開催にあたり皆川月華さんの作品集を
何度も何度も読み返し、
名匠庵で保管している月華作の小紋着尺や染め袋帯を
何度も手にとって眺めていましたので
一年の終わりに
たとえお写真でも月華さんの作品を
目にすることができて
本当に嬉しい気持ちになりました。
しかも月華の代名詞とも言える洋蘭の柄です。
宮沢りえさんの着こなしも素晴らしく、
きものの実物の発色もさぞかし美しいだろうと
想像しています。
良い機会なので
皆川月華さんの経歴をまとめたものを
ご紹介させていただきますね。
皆川月華 (みながわ げっか)
1982ー1987
明治25年ー昭和62年
1892(明治25年) 京都市上京区生まれ
1911(明治44年) 友禅などの染織図案を安田翠仙に師事
1914(大正 3年) 大橋商店に染織デザイナーとして入社
古代裂に興味をもち天然染料、古代染織の研究に没頭する
1927(昭和 2年) 臈染め友禅に絵画的表現を取り入れた「染彩」を確立。
帝展(のちの日展)に三曲染屏風出品、入選。
1940(昭和15年) 政府による奢侈品等製造販売制限規則公布
金糸、銀糸、絵羽の使用が不可能となる中、
盟友山鹿清華、小合友之助らと京都染織繍芸術協会を
設立、互いに研鑽を積む。
1943(昭和18年) 政府は日本美術及工芸統制協会結成
技術者の認定、原材料の配給、価格の決定などを統制。
戦時中の物資統制下の染織界において西陣は休業状態、
制作は思うにまかせず畠仕事とスケッチの日々。
1946(昭和21年) 第1回 日展出品
1953(昭和27年) 復活を遂げた京都祇園祭 月鉾の見送り「黎明の月」制作
その後菊水鉾の胴掛、前掛、後掛、見送り
月鉾の水引、蟷螂山、鈴鹿山などの見送りも製作、献納。
「月華の染」は今なお巡行の山鉾を彩っている。
1956(昭和31年) 京都市嘱託により海外芸術研究のためアメリカ各地を巡り
ハワイに2ヶ月間滞在、洋蘭のスケッチに専念。のちに
臈染めによる独特な洋蘭意匠の作品が数多く生まれた。
1973(昭和48年) 勲三等瑞宝章。
1987(昭和62年) 逝去。 享年94
商社から依頼を受け「作品」ではなく
「服飾」としてのきもの、帯を制作、
百貨店で展観し好評を博し、
染織作家達へのきものの注文が増え生活も安定、
現代に活躍する「作家」の先駆けとなった。
※月華の「染彩」について
江戸時代、友禅染の祖「宮崎友禅斎」が
「染による屏風」や「表装も自ら染めた両面染め掛軸」
などを自由な発想で創作した事にならい
自らも臈染め、繍などに絵画的手法を取り入れて創作。
「染彩」と名付け屏風、額装など個性あふれる
臈染め作品を発表しました。
皆川月華と洋蘭の出会いは
昭和31年4月〜7月の研究旅行の際に立ち寄った
ハワイでのこと。
その時の様子が昭和31年染織新報本社発行
「そめとおり」8月号に
インタビュー形式で紹介されています。
当時で2万種ともいわれる蘭のスケッチに没頭し
色鮮やかなハワイの植物の中にあって
「蘭は色もむっくりしてをり、中間色で、
品があって私は非常に好きなんです。」
と話されています。
皆川月華を魅了した
ハワイの蘭。
ハワイ州オアフ島の
フォスター植物園で
スケッチのかわりに撮影してきました。
月華さんが見た品種が
もしかしたらこの中にあるかな、と想像しつつ。
我が社の月華作品は
仮絵羽の小紋、小紋着尺、染め袋帯の
3点です。
染め袋帯は参考資料として。
ほかの2点も商品でありながら
一方で手元に置いておきたい気持ちもあり…。
なんとも魅力的な「月華のきもの」です。